いつか読むのだろうか。

2011.02.22.Tue.07:00
 読みたいのだけれど、読めない、という本がある。例えば太宰、とかW村上、とか今話題の、とか「読みたくなったら、そのうち読むんじゃない?今は読みたくないけれど。」と思っているもの(きっと読まないけど)とは違う感覚のもの。「難しそうだから。」と避けるのとも違う態度のもの。
 図書館で、新刊書店で、古書店でその本を何度も手にする。そしてまた棚にそっと戻す。いや、今はまだだ、という気持ちが働いている。それが元々どこからきているのかは判らない。この十年以上ずっと同じ行為、気持ちを繰り返しているのだ。
  
 大学時代、卒業論文を書くにあたって、友人が九鬼周三の『「いき」の構造』を参考文献の一冊として読んでいた。当時も、いつも読み損ねているその本を読もうかな、と思った。しかし自分のこともあったし、今度は本屋で手にする機会がなかった。
 卒論提出の日、提出場所で偶々その友人と会った。友人含め、知合いの何人かで「おつかれ様」と軽い抱擁などを交わす。それから友人は、持っていた論文を確認するようにぱらりぱらり捲った。ふと最終頁結びの部分が私の目にはいる。



 そこには、当時の私にとって眩暈を覚えるほどのうまい文章が綴られていた。



 そのことが決定打、だったのかどうかは判らないが、それからも相変わらず、出しては戻す行為を繰り返している。そしていつも同時に、嫉妬ゆえの眩暈とでもいうような、その時の感情をありありと思い起こしてしまうのである。それゆえ、また…とこれが繰り返されているように思えてならない。
 
 しかしながら、出会いつつも出会い損ねているこの状況もまた「本の経験」のひとつではないだろうか。こういう本が一冊くらいあってもいいではないか、とも思う。

 

 その学生時代の友人、古書往来座代表の瀬戸さんより、先日本年の御挨拶をいただく。版画制作品はHPでもたまに披露されているが、うまいなぁと見る度に思う。対象の選び方というのか、トリミングの仕方というのか。横にあるのは、学生時分、御本人より頂いた(はずの)指し棒(50cm長さまで伸びる)。何故もらったかは忘れた。
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エキサイティングな文字。私の周りは割と筆圧強の大胆な文字を書く御仁が多い…のだろうか。
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 『黄色い部屋の謎』を中学生の時分に読んで衝撃を受けて以来、ミステリ・推理小説という類は読んでいない。その本が学校の図書館のどの棚のどこいらへんにあったか覚えているほど、当時衝撃的だった。
 先日の買取りで、何冊か最近のミステリ・推理系が仲間入り。日本の作家の方は、名前しか知らない。しかしまとまってあると、一冊くらいは読みたくなってくる。


☆ 2月28日(月)は、休業日とさせていただきます。宜しくお願いいたします。



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コメント
そんなツンツン棒よくまだ持ってましたね!!!
あら!
どうもです~。すいません、人の作品を勝手に公開しまして…。あれ、つんつん棒って呼んでましたっけ?そして貰ったのかなぁ、というのも謎です。ただ、卒業式のあと、イベントの際にはこれをもってサイトウ君を追い回している之図が、写真で残っているのでそのときに貰ったか、なんとなーく自分のものにしたかですね。せとさんがよく使っていたので「なんか使えるかも」と羨ましかったのですが、いざ自分で手にすると、はっきりいって、これといった使用法がみつかりません。(笑)

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