のびたトム・ウェイツ。

2013.06.19.Wed.21:30



 酒場において、ワレとツレの出会いの話をされることほど、どうでもいいものはないとどなたかが申されていたが、別に酒場でなくとも、聞かされるだけの大方の人にとってはどうでもいいものだろう。
それを承知の上で、それでも語りたい、言葉を費やしてみたい対象というものは存在する。

 今日は、学生時代からの友人である、東京の「古書往来座」瀬戸さんについて書いてみたい。

 とはいえ当時の日記を見ても、ある日突然「瀬戸さん」と出てきたりするので、その出会いは正確な日付としてはわからないところであるが、それぞれ専攻が異なった我々を引きあわせたのは、両方にまたがっていた野口さん(私は心の中で秘かに“ノグチの兄貴”と呼んでいたので以下その呼称を用いる)であった。
 元々は、ノグチの兄貴の存在もよく認識していなかったのだが、私があるゼミで教授からこっぴどく怒られたことがあって、それが同じ教室に居た彼には印象的であったらしく、「すごい怒られてたねー」と別の講義で話しかけてきたところから、交流がはじまったのであった。ちなみにノグチの兄貴とは、学校に行けば会えるのに、なぜか一時期文通をしていたこともある。
 そのノグチの兄貴と話すようになって、私は彼と話すので当然と言えば当然なのだが、背後でいつも微笑とともに佇んでいる、よく一緒にいる人に気づいた。
それが瀬戸さんであった。
口を半月の形にして、そのまま固まってしまったような表情で、この人は今まで楽しそうに話していて、笑ったような顔をしてとまっているけれど、次の瞬間には怒り出すのではないだろうかなどと、最初の頃はその不思議な間合いに少しだけ警戒したりしていたが、慣れてくると、特に深い意味はないようで、それが瀬戸さんの表情であるのだろうと理解した。
もしかしたらお疲れで、表情筋が固まってしまっていたのかもしれない。

 別にそれはなんてことはない秋の大学の文キャンカフェテリア、特に事件が起こったわけでもなく、しかし私自身よくわからないが、今でもとても印象に残っている風景がある。
 私はカフエテリアの外の椅子に腰掛けていた。
その時分までは、お得意だったぶっつけ本番の一発書き、映画史の課題のレポートを書いていた。
タイトルは『ウディ・アレンの作品における女の表現について』。
図書館でも喫茶店でも自分の部屋でも文章は書けなかったが、カフェテリアではそれなりに書けた。
今でもあの場所でだけは、何となく書けるような気がしている。
ざわめきのボリュームと席間の頃合が丁度良かったのだろう。(さすがに昼食時の混雑などの中では無理であるが)
 そこへノグチの兄貴と瀬戸さんがやって来た。
半分冗談のつもりで、お金がないのだ、と言うと兄貴は百円をくれた。
私はそれで缶のミルクティーを買った。
二人は同じ席についていたが、別に私に構うことなく好き勝手に話し始めていた。
私は腹部にポケットのある黒いパーカーを着ていて、書くのに行き詰まるとポケットの中で両手を組んだり、さも二人の話を聞いていますよ、という具合に小さく相槌をうってみたりした。
もっとも彼らの話は、かろうじて私が名前を知っている程度の作家の話や、或いは全く知らない彼らの文学ゼミの内容であったので、よく分からなかったりすると、うへへと笑って誤魔化して、すぐに原稿用紙に目を落としていた。
 突然会話が止まって、変な沈黙が流れた。
「セトちゃん、どうしたの?」という兄貴の声に顔を上げると、瀬戸さんがすごい形相をしている。
「あー、煙草の灰飲んじゃったのね」と、苦みばしってか何も言えない瀬戸さんのかわりに、兄貴が言ったので、事情が理解できた。
喫煙者が飲み終わった缶を灰皿代りに使うことはよくあるが、瀬戸さんは飲んでいる最中のお茶の缶に煙草の灰を落としていて、落としていた事に気付かずお茶を飲んだのであった。兄貴が自分の飲み物を飲ませていたが、瀬戸さんの鬼のような形相はしばらく取れなかった。
 結局、帰路につくまで瀬戸さんのテンションはさがりっぱなしであったが、このときの彼の苦い表情に至るまでの一連の風景が、どうにも忘れられないのである。
煙草の灰入りのお茶を飲んでしまうということ自体も、別段珍しいことではない、目の前で見ていれば起こりうることの想像に難くはないことであるし、その時間の流れがこの先に何か別の事柄へ収斂されていくような事象でもなかったので、それゆえこの鮮明な風景は、年を経るごとに一層不思議なのである。

 もうひとつ。
これは、くだらないことを承知でやったということで、よく覚えているのだが、校舎が建替えられて、新しい階段を一緒に降りている時のことであった。
誰かと降りるのははじめてで、なんとなく心にウキウキとしたものが湧きあがってきたので 「(こう降りていく感じが)なんだかキャンパスライフって感じ」と、瀬戸さんに(勿論冗談で)投げかけてみた。
すると「あははー、って感じ?」と、予想外の反応で返ってきたので、さすがに私も?のマークが浮かんで止まってしまった。
しかし瀬戸さんが、あははーと言い出したので、私も負けずに、あははーで応酬して、二人で「あははー」と言いながら階段を降りきったのである。
そんな、とてもくだらない事柄で、これまた何がどうなったというようなこともないのだが、くだらなさの共有をするという、学生の特権みたいな、その共有こそが“キャンパスライフ”だったのだろう。今更ながら。

 他にも「渋谷の犬に喰われるところ」(FAX送信時の瀬戸さんの表現)で待ち合わせした時の話など、瀬戸さんについては色々あるが、これ以上一気にここに書くと、どうにも瀬戸さんの間抜けなエピソードを披露して彼を貶めているだけの、学生時代のトンデモな友人になってしまうので、これ以上は控えようと思う。
 どうでもいいというのか、何気ないといったらよいのか、そういった形容の、かつてもその時点から先の伏線にならなかったし、あれらのことがこれからも伏線になることはないであろうというような、なんてことはない風景の連なりで、私の中の瀬戸さん像は形成されているのだろう。

 ところで冷静に考えると、あの当時から瀬戸さんは、古書の世界に関わっていたのだ。
通学途中の道には、古書店が軒を連ねていたが、時々外から眺めたりするけれど、当たり前の風景すぎて、彼がアルバイトで古本屋で働いていることは知っていたけれど、それも含めて別段何も特別の感をもよおす事はなかった。
今、年に一、二度、改めての訪問をすると、いつも急いで俯く様に駆け抜けた道の、街の変化は出来るだけ抜きにしても、見(え)る風景は違う。人の立場や興味による、まなざしの地点の変化は不思議である。
当たり前のことなのかもしれないが。
 もう二十年近く古本・古書の世界に携わっている瀬戸さんは、今の私にとっては業界の先輩ということになるのだろう。引き続き仕事の上でも関わりあいが出来ていること、学生時代の友人のみの関係ではなくなったことが、自分が古本屋をするようになって良かったことと同時に残念なことである、というのは言い過ぎか。

 心の師匠は、京都なら「書肆砂の書」さんで、東京なら「往来座」の瀬戸さんであると前にも書いたような気がするが、それでも瀬戸さんは私にとっては、やはり学生時代の友人という趣が強い。

「トム・ウェイツが好きだ」と言ったことがあって、それを覚えてくれていたのだろうか。
ある時、「トム・ウェイツあるよ。ちょっと延び気味だけどね。」と、もう使わないか新しくするか、忘れてしまったが何らかの理由で、当時アルバイト先の古書店のBGMでかけていたというカセットを、貰ったことがある。
トム・ウェイツは瀬戸さんのお気に入りのミュージシャンのひとりだから、何度も流したのだろう。確かに少々間延びした感はあった。
それでもトムはやはりトムであった。
 今でもたまにトム・ウェイツを聴くと思うのは、どこかにすでに失ってしまったその“のびたトム・ウェイツ”のテープのことで、それから瀬戸さんのことである。
私の中で、瀬戸さんは、瀬戸雄史さんなんだよな、と。
そして、いつもその後から「古書往来座の瀬戸さん」が追っかけてくる。







と、まあなんだか回顧調ですが、、今宵の不忍ブックストリームにて、私の数少ない貴重で大切な友人のひとり古書往来座の瀬戸さんの特集が組まれるということですので、是非御覧いただきたいな、と勝手ながらお薦めさせていただきます。
アーカイブ化もされているようですので、或いは後日にでも。

<不忍ブックストリーム>

http://www.ustream.tv/channel/6200158




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