鬼の居ぬ間に。

2010.12.14.Tue.13:13
 この作業を目の前ですると「ソンナラアンタモ書キナサイヨ」などと言われるので、鬼の居ぬ間に、乾かない舌の根を見せながら本日店番担当のYがこっそりお送りします。画像が使いたかったので。特別寄稿ですよ、Kさん。

1213_convert_20101213124252.jpgカウンターの傍。
図書館除籍本です。御入用の方どうぞお持ちください。もう少しあったような気がしたのですが、引っ越し等で紛失した模様。(いずれも廃棄印・リサイクル本シールの貼付あり)



 さて今回の書籍はこちら。中西夏之(1935~)著「大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」(筑摩書房 1989.4.1発行 定価2880円) 売切れ ご覧の通り図書館除籍本ですが、この本に関しては値をつけさせていただきました。
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 一昔前住んでいた場所の「歩いて1分、走って30秒」という距離に、区立の中央図書館がありました。落ちこぼれ学生だった私が学校の図書館を利用したのは両手で足りるほど。手にしたのはルカーチとのらくろと大島弓子、と覚えているくらい利用しませんでした。一方、区立図書館には割と通っており、先述の本達もいつもの利用のついでにもらってきたような記憶があります。学生時代を通じて「1960年代」の芸術を研究していたので(←一応、です。卒業はいつもギリギリ)、件の書籍も参考文献になればと思い連れて帰りました。ところが昔も今も私にとって、中西の作品自体の印象は薄い。(研究者の方、すみません)ぱっと出てくるのは土方巽の背中にペインティングを施している写真くらいです。「ハイレッド・センター」で組んだ赤瀬川源平や高松次郎の方が作品としては印象的です。(ただ個人的にはこのへんの作家はあまり興味がなかったのでざっくりとしか知りませんが。再び研究者の方すみません)
 それゆえと言ってよいのか、昔も今も私にとって中西夏之といえばこの「大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」です。あとがきによれば1969年から1989年の間に発表された文章をまとめたものだそうです。内容は一応評論集となっていますが、言葉によるデッサンとでも呼べそうな制作メモの色合いの濃さを感じさせます。特に美文というわけでもないのですが、淡々と硬質な言葉が紡がれていて、作家の(特に若い作家の)ただもう文が散らかっているだけ、のようなものとは一線を画す散文、一種詩でも読んでいるような文章、構成だと思います。それでいて耽美的なわけでもない。「絵自体がかたくなに保持しようとする正面性と平面性」を「絵描きの位置」で探り続けているこの美術家に、自己陶酔に陥るなどあり得ないのでしょう。


 この本は制作を行っている若い方、特に絵を描いている方には是非読んでいただきたく思います。私自身は絵を描いたりしないので、平面性の問題など最後の最後には近づけない(というかわからない)何かが、日々制作行為に没頭している方には響くものとしてあるのではないでしょうか。ま、なければないでよいと思います。私は本を読むということを、功利的な行為とは捉えていませんので、無理に感じ入る必要はないと思います。ただ個人的にはこの本はお勧めです。電車の中で読めるものでもなければ、珈琲でも淹れてゆっくり読む、というような気分にも何故かならないという存在感の作品でした。
 一方で、中西夏之なんて知らないという方は(この文章は中西夏之が美術家として知られているという前提で書きました)ただの散文として読むのも一興かと思いますよ。ここで売れてしまっても、図書館(特に芸術系大学の図書館)には蔵書としてあると思いますし、そちら方面をあたってもよいかと。
 
 今回、普段無視を決め込むようにしているamazonや他のサイトをちらりと検索したところ、古書としてそれなりのお値段で売られたりしたのですね。流通したのが少なかったのかもしれませんが、古書として出回っているのも少なそうです。この本の所有者達が大事にしている為にそうであるとするならば、幸福な本だともいえそうです。(あくまでも仮定の話)
 現在私が再読中ですが、同時進行で何冊か読んでいるため店頭に出すのはもうしばらく先になりそうです。(予約・通信販売等は受けておりませんので御了承ください)肝心のお値段ですが、多分牛丼を大盛にして生卵とサラダと豚汁をつけた位よりはちょっと安めだろう、という設定です。そんな取り合せで食べたことはないのでよくはわかりませんが。




 本日の長文・駄文はこれにて終わり。音楽の話を期待していた皆様、失礼いたしました。








            レモンティーから心器へ

群青色の吹き付けを終えて作業場を出る。
紅茶に浮いたレモンの円にスプーンを刺したとき、時刻は七時。
ちようど断念した舞踏会の開演時刻でベルが鳴っているはずだ。
テーブルの上のレモンティーを復習する。レモンの円は紅茶に浮いている。茶碗の影は受け皿を覆い、皿は茶椀を受けている。全体はレモン色。すべてが接するように浮いている。心器のモデル。





……等伯たちが、この小舟の不安定の揺れの中で水を器に盛り、こぼさぬようにそっと水面をみつめ、移された絵を写すような、受身のひたむきさは、又、私(達)のものでもあろう。この小舟の上に生きる人々の中に降下して、画家は起源のなさに囚われることなく、生きる方法はまだあるのだと云うことを証明するために、3から1をマイナスとする動作を繰返し、いずれはこの小舟が『ガリバー旅行記』のラピュータ島のように地球と云う起源からも浮上してゆくのをみるだろう。
                           〈『等伯画説』そして3マイナス1〉






橋に向かうのは対岸に渡るためでではない。……
                                  〈橋の上〉






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